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燃えよトレラン | 『燃えよトレラン』ではトレランに燃える、熱きランナーたちを紹介していきます。

中村悠志さん

2009/12/03 今回の主人公

第2回 中村悠志さん

陸上競技の中長部に所属するすべての選手の憧れの舞台『箱根駅伝』。その舞台を目指した一人の若者。
トレイルランのお話しを伺うはずだったのに、長距離走に賭けた青春時代、社会に出て障壁を乗り越えてきた中村さんのお話はあまりに興味深い。
ランニングはいつでも人生の素晴らしきパートナーなのだ。

陸上競技に没頭した青春時代

法政大学3年の秋、念願の大学3大駅伝のひとつ、出雲駅伝に出場を果たした。写真は最終6区ゴール目前
法政大学3年の秋、念願の大学3大駅伝のひとつ、出雲駅伝に出場を果たした。写真は最終6区ゴール目前

トレイルラン二ングは山や丘陵の未舗装路(つまりトレイル)を走るアクティビティだから、トレイルランナーの多くはロードレースの愛好者でもあるし、過去(現在も)に持久力系のスポーツに没頭していたという人が多い。例えば、陸上部の中長種目やサッカー、トライアスロンなどだ。中村さんもその一人。

「小学校のマラソン大会では小1から6年まで、毎年5番以内に入ってました。僕の育った横須賀は坂道が多くて、子供のころからどこに行くにも自転車で、坂道は足を一度もつかないで登りきる、みたいなことを遊びながらやっていましたから、知らず知らずに足が鍛えられたのかもしれません」

少年は中学生になり陸上部に入部。スポーツ選手ならだれもが目標とする大きな夢。

「子供のころから、正月は父が好きな箱根駅伝をなんとなく観せられていたのですが、胸のH、C、Wといったアルファベットが印象的で、いったい何なのだろうと。その意味を知って驚きました。アルファベット1文字で表された大学名を胸に走る意味の大きさに、子供ながらにすごいなと思った。
中学1年のとき、バルセロナ五輪で中山さんや谷口さんの力走する姿をみて、大きな夢を抱きました。これを言うと恥ずかしいですが、『自分もいつかオリンピックに出れるランナーになりたい』と真剣に思ってたんです」

高校は兄の同期で地元の小中の先輩、法大に進学し陸上部で活躍した須田さんに憧れて法政二高に進学。3年間、インターハイを目指し練習に明け暮れた。

「部活を終えて家に帰るのは毎日9時過ぎでした。練習は校内のトラックが主でしたが、週に1度は学校からほど近い多摩川でのペース走がありました。このとき多摩川を初めて見て、いいコースだなと思いました。多摩川の練習はいつも楽しみでした。
高校の3年間は10月の県駅伝、11月の関東駅伝を目標にしていました。神奈川の県大会は毎年丹沢湖だったため、夏合宿も同地でやっていましたが、当時は『気合いだ、気合いだ!』といま思えばただがむしゃらに走っていただけで、フォームもバラバラでいい走りができていなかったですね。高3最後の県駅伝では、アンカーを走って関東大会出場を決めたものの、僕自身もチームも納得できる成績は残せませんでした。
監督は部員の誰もが恐れる厳格な方で練習も厳しかったのですが、さすがに3年の県大会が終わると、学習遅れ組は『関東駅伝は出ないで、勉強に専念しろ』と。ちゃんと成績のことも調べていた。 お陰でなんとか大学へあがることができました(笑)」

大学に進学し、憧れのHを胸につけて走るため陸上部に入部。それは子供のころ抱いた夢を実現するためであった。目標はただひとつ。

「陸上部の門を叩いて、最初に感じたのは『とにかく怖い』ということ(笑)。当時の法大陸上部長距離ブロックは、その年の箱根駅伝でシード落ちしていて雰囲気は最悪。先輩たちも10月の予選会に向けて殺気立っていました。夏合宿の前には部員が集められて『5000mで15分30秒さえも切れない、チームの足手まといはやめてもらう』と。まさに自分のことを言われている訳で、とにかく必死で練習しました。
個人成績で突出していない中長部員の目標といえば、「駅伝」しかないのです。部員の目標は誰もが3大駅伝に出場すること、とくに箱根のメンバーに選ばれることでしたので、チーム内の競争は激戦を極めました。

2年の冬になり、ケガをして身体のバランスがどうも変だと感じた時、跳躍のコーチから当時投擲コーチをしていた整体師の先生を紹介してもらいました。埼玉県草加市で施術院を営んでいる古谷先生という方で、八王子の校舎から2時間かけて通いました。先生に『こんな身体じゃ走れる訳がない。毎日、背筋1000回と懸垂100回を絶対やるように!』といわれました。身体の軸が全くできてなく、脚だけで走っていたのですね。
チームの本練習が終わったあと、先生の言葉を信じて、毎日一人残って半泣き状態でメニューをこなしました。すると2週間くらいで効果が表れ、ある日突然身体がかってに前に進んで行くようになったんです。かつて体験したことのない感覚でした。また、いままで胸式で呼吸していたのが、腹式でできるようになり、酸素をより大量に循環させることで、呼吸が格段にラクになりました。まるで身体が入れ替わったかのようにタイムがぐんぐん伸びて、人間の身体の奥深さを知ると同時に、走る楽しさを再認識しました。

結局、あと一人というところで箱根出場の夢は果たせなかったのですが、4年の秋に出雲(大学3大駅伝のひとつ)のアンカーを走ることができました。最終学年の箱根は、3区中継所で1年後輩の徳本(現在実業団で活躍する当時の法政のエース)を迎えるサポート役に回りましたが、この年、法政は過去最高の総合4位となりました。仲間と一緒に戦う悦びを味わえた、とても充実した4年間でした」

社会に出て待ち受けていたもの。そして再び多摩川に

溝ノ口の自宅からほど近い多摩川。ここが中村さんのホームコース
溝ノ口の自宅からほど近い多摩川。ここが中村さんのホームコース

「出版社に就職がきまり最初の1年目は京都に配属となりました。中高大と10年間走り続けてきましたので、正直『もうあんなに走らなくていいんだ』とほっとする日々を過ごしていました。それでも休日は身体が許さなくて、毎週末10~20km走り、『宇治川マラソン10kmの部』などにも遊びで出場しました」

東京に戻り4年、キャリアを重ねていくうちに仕事の領域も拡大していった。責任感の強い中村さんの身体に異変が現れた。

「27歳の時、身体を壊しました。当時、法人相手の営業部にいたのですが、過労から心身のバランスを崩し休職することになりました。結局、5カ月もの間休職することになったのですが、休職する前は毎日疲れきっていて走る元気も気力もなく、約半年間一度も走っていない状態でした。
休んでいる間、薬を服用しながら自宅療養していたのですが、ある日、多摩川へ散歩に出かけて、高校時代毎週この土手で走っていた自分の姿を思い起こしました。ふと『走ってみよう・・・』と思い立ち、何かに導かれるように走り始めました。軽く数キロ流しているうちに、思わず涙が溢れ出してきました。
『うわ〜気持ちいい・・・。走るってこんなに気持ちがいいことだったんだ。こんなに大切なことを忘れていた。オレいままで何してたんだろう』と。

走ると精神をリラックスさせる脳内ホルモンが出るのです。多摩川のお陰でそれからは体調がよくなり無事仕事に復帰することができました。
この経験から得た、走ることの楽しさや素晴らしさを一人でも多くの方に伝えたいと思い、公私にわたってお世話になっていた佐藤伝さんという作家さんに相談したところ、「じゃ、僕が主宰している異業種交流会の後に走る会をやったらいいよ」と。それ以後、そこで出逢った仲間たちを中心に、走る楽しさを共有し合ってします。いままで走ったことがない人や、走るのが嫌いだった人が生き生きと輝いていく姿を見るのがとても楽しいですね。
昨年1月からはランニングクラブ『ハリアーズ』で、休日に代々木公園でコーチのお手伝いをしています。会員さんの多くが多忙な社会人であるにもかかわらず、練習時間を捻出し、自己ベストをドンドン更新していく姿からは大きな刺激を受けますね。
現在は、仕事の合間を見つけて週3日くらい軽く走っています。そうそう、来年2月の東京マラソンが当選しまして(!!!)、そろそろ真面目に練習を始めないと(笑)」

初のトレイルランレースはいきなりナイトラン

第6エイドで石渡さんと会心の笑顔。この後、レース最大の難所・飯縄山が待構えていた・・・
第6エイドで石渡さんと会心の笑顔。この後、レース最大の難所・飯縄山が待構えていた・・・

9月22~23日、長野と新潟をまたにかけた全長100kmの『信越五岳トレイルランニングレース』に、友人(前回主人公の石渡さん)のペーサー(並走者)として出場した中村さん。
初めてのレース体験は、67km地点からの33kmのトレイルランのため、距離に対する不安はなかったが、前夜のビッグなパーティー、当日早朝5時の壮大なスタートを目の当たりにし、「ペーサーとして役目を全うする」ために、眠気も観光ムードも吹き飛んだ。

「大学が八王子にあり、当時、高尾山山頂へは練習でよく走りに行ってました。だからレースで山を走ることに違和感はありませんでした。
昨秋、ハリアーズの練習会で『高尾山トレイルラン』という企画がありまして、久々の高尾ということで引率役をやらせていただきました。
僕は普通のランニングスタイルだったのですが、会員さんのギアをみてびっくり。小型のザックを背負い、肩口からホースが出ている。『これなんですか?』とたずねると、『ハイドレーションパックのホースです』。???」

「ある日、異種交流会で知り合った石渡さんから、トレイルランレースのペーサーをやってくれないかと言われました。レースにまだ出たことがない自分としては、最初は断ろうかと思ったのですが、ちょっと興味もありまして。気がつけばシューズもバックパックもヘッドライトも全て揃えてしまいました(笑)」

「ここから先、ペーサーが同伴できる第2関門(67km地点)の笹ヶ峰ダムで、指定の12時に石渡さんを待っていました。結局15時半に石渡さんは到着しましたが、とても疲れていて、正直この時点では残り33kmは厳しいのではないかと思いました。
しかし絶対に諦めたくないという石渡さんの熱意を感じ、しっかり休息をとりスタート。10分ほど進んだところで、石渡さんが関門にヘッドライトを忘れたことに気づき、僕が取りに戻るなどのトラブルもあり、再び合流するころには夕闇が迫っていました。

夜10時、最後の難所、コース最高峰の飯縄山の登り口(第3関門)に到着したとき、係の方からゴールまで2時間といわれ、石渡さんを励ましながら登山を開始しましたが、山頂に着いたのが2時間後で、ゴールまで4時間を要してしまいました。
山頂からは雨が降り、深い霧に包まれ、この季節としては経験のない寒さに、「俺たち深夜の12時過ぎに何やってんだろ。今頃宿の布団の中で寝ていたはずなのに」と心の中で叫びましたが、僕より石渡さんの方が遥かに苦しいはずだと考えると、「自分が彼を励まさないでどうするんだ。弱音を吐くな」と。トレイル脇で若い女性選手が(苦しさからか)泣いていましたが、僕らも疲弊していて声を掛けるのが精いっぱいでした。

ゴールした瞬間は何とも言えない感動でしたね。完走の悦びで辛かったことも全て消え去りました。
結局、初めてのレースは9時間の内7時間が真っ暗で、足元以外、何も見えませんでしたが、不思議と怖さはなく素直に楽しかった。暗闇も、寒さもすべてが未体験なことで、ライトのスポットに照らされる白い息と静寂の中になる熊鈴の音。なんだかとてつもない冒険アトラクションに迷い込んでしまったような感覚で、いまではいい思い出です」

9月のあの日以来、山には行っていないという中村さん。最後にトレイルランはこれからも? という問いに。

「トレイルランは山あり谷あり、まさに人生の様なスポーツですね。ロードレースはタイムが全てですが、トレイルランは『完走すること』が大切なのでは。自然の豊かさを感じることはもちろんですが、レースでは走り終えた後、互いに大きなチャレンジを讃え合いリスペクトし、『走りきった』喜びを純粋に味わえるのがいい。
今回の経験でトレイルランもロードと並行してやっていきたいと思いました。春には20~30kmのレースにチャレンジしようと思います。ハセツネCUPにも出てみたいな」

中村悠志(なかむら・ゆうじ)

1978年神奈川県生まれ。中学3年の横須賀市駅伝で区間賞をとり、陸上競技(中長距離)にのめり込む。中学、高校、法政大学と陸上部に所属。大学4年秋に出雲全日本大学選抜駅伝の6区(最終区)ランナーとして出場。現在、大手出版社でビジネス、自己啓発関係の書籍編集を担当。

中村悠志(なかむら・ゆうじ)

パーソナルDATA
dot_bule自己分析『燃えラン度』

自己分析『燃えラン度』

dot_buleロード・トレラン比率

ロード・トレラン比率

dot_buleランニング以外の特技or得意分野

そば打ち

dot_buleランニング歴・記録

18年(トレラン歴半年)、フルマラソンPB3時間9分(2009年北海道マラソン)、5000m14分48秒(大学時代)/2009年11月現在

dot_bule過去1年の出場レース 千葉マリンマラソン10K(1月)、霞ヶ浦マラソン16K(4月)、パラカップマラソン21K(4月)、横田基地駅伝5K(6月)、北海道マラソン42K(8月)、信越五岳トレイルランニングレース100K(9月)、諏訪湖ハーフマラソン21K(10月)

中村悠志さんご紹介による 次回『燃えラン』主人公は、山田安孝さんです!

中村悠志さん
中村悠志さん

山田安孝さん
山田安孝さん

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